報告
第32回 公開シンポジウム
地域から考える「翻訳」
日時: 2024年6月29日(土) 14:00-17:30
会場: 18号館ホール(オンライン同時配信)
専攻長挨拶:和田 毅
趣旨説明:井坂理穂
地域研究という分野において、「翻訳」という行為は、常に意識せざるをえないものであるといえるでしょう。地域研究者は、分析対象とする時代や地域のことば、概念、テキストを、自らの使用することばにおきかえて理解し、表現することの限界や難しさにしばしば直面しています。なぜならそこでの「翻訳」は、単なることばのおきかえだけではなく、そのことばの背景にある各時代・地域の状況を考慮に入れつつ、そこに表されている内容をいかに異なる文脈のなかで語りうるのか、という問いを含んでいるからです。実はそうした「翻訳」の困難さに向きあうことこそが、地域社会をより深く理解するための鍵となることもあります。
自らの「翻訳」行為へのこのような批判的まなざしは、同時に、地域研究者たちのあいだに、研究対象となるそれぞれの時代・地域に生きる人々が行ってきた「翻訳」行為に対する強い関心をも呼び起こしてきました。地域研究の分野では、人々が新しいことば、概念、テキストと出会ったときに、それをどのようにして、いかなる目的意識のもとに、自分や自分の周りの人々に理解しうるかたちに「翻訳」してきたのかをめぐり、様々な事例が検討されてきました。あるいは、何らかの権力が、自らの意図のもとに「翻訳」行為を促したり、制限しようとするありさまを多方面から扱ってきました。誰によって何がどのように「翻訳」されたのかを、そのような「翻訳」がなされた背景とともに掘り下げていくこともまた、地域社会についての新たな側面を明らかにすることにつながります。
本シンポジウムでは、「翻訳」を切り口としていかなる地域研究を展開しうるのかを、異なる時代・地域を扱う研究者たちの視点から紹介しました。なお、2020年度以降、コロナ禍の影響により、専攻シンポジウムはオンラインのみで開催されていましたが、2024年度は18号館ホールにおける対面でのシンポジウムを復活させ、同時にこれをオンラインでも配信するというハイブリッド方式で行いました。
報告1:田中創(地域文化研究専攻)
「ローマ帝政後期のギリシア語・ラテン語事情」
報告2:棚瀬あずさ(地域文化研究専攻)
「ボードレールに何を読むか―1900年代のスペイン語圏アメリカにおける西欧近代詩学の翻訳」
報告3:鶴見太郎(地域文化研究専攻)
「終わらない一度きりのホロコースト―歴史と記憶の連続性と翻訳不可能性」
報告1(田中創)では、東ローマ帝国における事例を通じて、翻訳に関する様々な論点が提起されました。東ローマ帝国では、政府内での使用言語がラテン語であったのに対し、帝国内のリンガ・フランカとしてはギリシア語が用いられていました。それ以外にも各地に様々な言語が存在しており、複雑な多言語社会が築かれていました。本報告は、このような社会において、翻訳が異なる言語間の橋渡しとなる役割をもつ一方で、原典の内容を改変し、理解の統一を乱す破壊的なものとしても認識されていたことを、宗教・法律テキストの事例をもとに明らかにしました。また、ギリシア文をラテン文字で表したり、ラテン語の専門用語を交えたりするなど、敢えて翻訳をしないことで、ラテン語・ラテン文字使用者の特権的な地位を喧伝する効果が生みだされていた可能性を指摘しました。報告末尾では、汎用性の高いギリシア語での意思疎通が行われる場では、少数派の言語への配慮が乏しいことが示され、意思疎通の手段としての翻訳の限界が論じられました。
報告2(棚瀬あずさ)では、ウルグアイの詩人、フレオ・エレーラ=イ=レイシグ(Julio Herrera y Reissig, 1875-1910)による翻訳行為の事例をもとに、20世紀初頭のスペイン語圏アメリカの詩的言語と文化・社会の響きあいの様相が示されました。まず、エレーラが、近代詩の系譜の始まりに位置づけられる詩人シャルル・ボードレール(1821-1867)の「腐屍」(『悪の華』所収)をいかに翻訳したのかをめぐり、スペイン語訳の韻律や表現が検討され、<メメント・モリ>のバロック性が前景化されているありさまが示されました。さらに、エレーラがボードレールから「受け取らなかった」ものとして、(1) 都市というトポス、(2) 神への挑戦という主題、という二つの要素が挙げられました。本報告は、以上のようなエレーラの翻訳を、19世紀半ばのパリという特殊で限定された環境のもとで培われた詩学の多面的な近代性が、ウルグアイ、あるいはスペイン語圏アメリカというもうひとつの特殊な環境に移し替えられ、意味づけられる際に生じる濃淡や葛藤を映し出すものとして描き出しました。
報告3(鶴見太郎)では、ある事象にある言葉をあてるというかたちでの「翻訳」に焦点が当てられ、「ホロコースト」という「訳語」がこれまでにどのように用いられ、どのような意味を付与されてきたのかが検討されました。ここではまず、2024年10月7日のハマースによる越境攻撃が、イスラエルのユダヤ人たちの間で「ホロコースト」として「翻訳」されていることが指摘され、「ホロコースト」という「訳語」と、同じ事象を指すためのその他の「訳語」との違いが論じられました。そのうえで、「ホロコースト」という言葉がもつ特徴として、(1)付随する含意が多いこと、(2)特定の地域において、その地域固有の状況と深く組み合わさっていること、(3)未完のもとして捉えられていること、の3点が挙げられました。本報告末尾では、物語としてのホロコーストには、現在においても一向に終わりが見えないことが強調され、この事象を一語に翻訳するのではなく、分解して翻訳するという方向性が提起されました。
シンポジウムの後半では、二人のコメンテーターと参加者を交えた質疑応答がおこなわれました。
コメント1:砂田恭佑(地域文化研究専攻博士課程・日本学術振興会特別研究員)
コメント2:石井剛(地域文化研究専攻)
コメント1(砂田恭佑)では、「イスラエル王国」時代の神に対する祈りや嘆願などを集成した『詩篇』(=『聖詠』)が、典礼文あるいは註解というある種の解釈を予め含んだ形で、一方では東シリア教会を通じてシリア語、さらに中期ペルシア語へと訳され、一方ではギリシア語・ロシア語を介して20世紀初めに日本語へと翻訳された過程が紹介され、そのなかにみられる文化適応の事例が論じられました。さらにシンポジウム全体に関わる論点として、「翻訳しない」ことを、特定の立場への参与を中立的に避けたものではなく、むしろそれ自体をも一つの参与としてみなす可能性が示されたほか、翻訳不可能性を地域・文化の固有性の徽章とみなす考え方に対する問題提起が行われました。
コメント2(石井剛)では、シンポジウムのタイトルである「「翻訳」から考える地域」の「地域」の部分に焦点が当てられ、「翻訳」することなしに「地域」が存在することはなく、翻訳によって世界像が規定されているという立場から、翻訳と権力の関係や、地域研究者たち自身も含め、翻訳をする人々のもつ特権性の問題が取り上げられました。さらに、翻訳不可能性と翻訳行為との関係、東アジアとローマの言語状況の比較、「腐屍」の翻訳に込められた近代への抵抗の意識、朽ちることへの向きあい方などの論点が出されました。
シンポジウム末尾の総合討論では、フロアからも数多くの質問やコメントが寄せられ、活発な議論が展開されました。個別の報告への質問のほか、翻訳と権力、翻訳と地域研究、翻訳不可能性、言語と身体、「翻訳」と「比喩」「象徴」など、様々な論点をめぐり、意見が交わされました。
シンポジウム終了後には懇親会が開かれ、登壇者・参加者たちが飲食をともにしながら、和やかな雰囲気のなかでさらなる意見交換を行いました。
(司会・文責 井坂理穂)
在学生によるリアクション・ペーパーから
私は今までも翻訳という行為が持つ問題点について考えたことがありました。例えば通訳を通じて他言語話者とコミュニケーションを取る際、そこには通訳自身が持つバックグラウンド由来の価値観が少なからず反映され、オリジナルな意図とは異なるニュアンスが伝えられる場合があります。このように、翻訳者の影響が反映されることで一対一の時とは異なる形にコミュニケーションが変化することは、翻訳という行為の問題点であるというように感じていました。しかし、今回のシンポジウムで翻訳という作業は今まで考えた以上に様々な意図が含まれていることを知ることができました。田中先生のご発表では、「翻訳しない」という行為が、その言語の地位を守る、ないし神聖化するという含意を有することを学ぶことができました。これは、コーランが他言語に翻訳されないことで聖典としての地位を維持していることと同一の力学が作用しているように感じました。また、鶴見先生のご発表では「ホロコースト」のような単語をあえて訳出することなく使用することで、その単語が持つ固有性を強調できるということを学ぶことができ、当然のように固有名詞で使用していた私にとって新鮮な感覚でした。棚瀬先生のご発表は、先述した私が元から持っていた翻訳に関する問題点と似通っているのではないかと思います。しかし、私は通訳による意味の変更・付与が意図せず起こるものだと捉えていたのに対し、エレーラは意図的にボードレールのオリジナルの「腐屍」に別の意味を付与しているのではないかと思える点があり、その意図を読み解くという別の問題が翻訳行為に浮かび上がってきていることを認識しました。御三方の発表を通して、私の中の「翻訳」という行為により深い意味が包含されるようになり、他地域の言語を扱う以上そうした意味も考慮しながら進める必要性があると再認識できました。
(アジア/加藤稜太)
「翻訳」という営みにおいては、原テクスト(あるいは、こう言ってよければ、原「出来事」)が有する真正性・神聖性が必ずや問題となる。どんな翻訳者もアプローチは違えど、元のテクストが言わんとすることを可能な限り正しく表現し直すことを最大の目標としている。しかしながら、翻訳とは、どうあがいても原テクストの真正性を毀損したり、あるいはそれに立脚した既存の秩序を揺るがしたりするものであらざるを得ない。それゆえに、翻訳がもたらす攪乱の効果——ベンヤミンの複製技術論における「アウラ」やボードリヤールの「シミュラクル」を想起したくなる問題でもあるが——について、どのように向き合い、どのような戦略を取っていくかの選択は、実のところ各々の実践者にゆだねられている。翻訳を肯定するのか、否定するのか、迂回するのか、一人目を務められた田中創先生の発表からは、ローマ帝政後期という特定の地域・時代に注目するものでありながら、翻訳をめぐる理論的な見取り図を教えてもらったように思われる。
棚瀬あずさ先生の発表で紹介された、エレーラ=イ=レイシグによるボードレールのスペイン語への翻訳の実践については、翻訳が持つある種の恣意性が肯定される事例が見て取れる。先生の解説によれば、確かにエレーラの訳文は概して原テクストへの忠実を守るものであり、フランス語表現との整合性を取るために敢えて擬古的なスペイン語表現を用いるものであった。だが、思想や問題意識の点についてはその限りではなく、エレーラはウルグアイに特有な社会・時代文脈に合わせて読み所に選択を加えていた。これは、翻訳が必ずしも字面だけに関わる営みではないこと、翻訳的攪乱の効果は字面を越えた局面でも肯定され得ることを示している。
鶴見太郎先生の発表に関しては、あまりにアクチュアルなテーマであるために語り難さがあるが、翻訳を放棄する実践、あるいは翻訳を迂回する実践の極めて顕著な事例が取り上げられていたように思われる。それは、イスラエル的な論理の下で語られる「ホロコースト」である。我々日本人の多くにとり、イスラエルによる侵略行為とガザ地区の抵抗運動の末に発生した10月7日の出来事をホロコーストと称することは自明ではないし、異なる二つの事象の間で不可能な翻訳を行っているように見える。だがイスラエルにすればこれは翻訳には妥当せず、「終わらない一度きりの」出来事として理解されている(先に指摘した「アクチュアルな語り難さ」というのも、イスラエル的な(非)翻訳の戦略に由来するのかもしれない)。これは、言ってみれば原出来事の真正性・神聖性を無限に保存し続けることであり、翻訳の迂回、あるいは無化を示している。
質疑応答のパートで語られていたように、地域文化研究というものは根本的に翻訳を前提とせざるを得ず、翻訳を拒絶することは研究活動そのものを不可能にする。原テクスト(出来事)の真正性への意識は当然のこととして持ちながらも(こちらが欠けても研究にはならないだろう)、翻訳が不可避であるならば、研究者は原テクストを神聖化するのではなく、翻訳という営みが持ちうる離心的な創造性に賭けてみる必要があるのかもしれない。
(フランス/上田圭)
田中先生のご報告をうかがうまでは、ローマ帝国においてはリンガフランカとしてのラテン語の地位は絶対であり、いかにラテン語を普及させるのかが、当時の支配層の命題であったと勘違いとしていました。根本的なところで知識の間違いを正して下さり有難く思います。
また、先生より言語と言語の一対一、つまり等価性についてコメントがありました。言語特有の機能性という見方も大変面白く感じました。別の言語に翻訳する中で、言語の基礎にある文化的価値の差異とことばの使用から、意図せず失われ、また付加される意味があるはずで、これが新たな危険性を含むだけではなく創造性をも育む可能性もあるように感じました。
鶴見先生のご報告では、分解して翻訳することの重要性をおっしゃられていました。この「翻訳」そのものも、同一言語であっても世代交代と共に翻訳が翻訳される、一種の流動性がある気がします。そのような流動性をもつ翻訳はむしろ「何が翻訳されえないか」を語ることで、意味をあまり変えず後世に伝わるような気もします。(この感想を書いたのちに、翻訳不可能性について先生からコメントでの解説があり理解が深まった気がします)
ところで、先生が挙げられたランズマン監督の「ショアー」を見たことがあります。大変にショッキングな映画でかなり疲れた記憶があります。ただ、現地の人々の語りを通訳がどの程度正確にフランス語に翻訳(通訳)していたのかがしばしば気になった映画でもありました。つまり語りの時間的長さの割には、訳されるフランス語が短く簡潔で、ラフに丸めた印象があり、彼らの言葉を果たしてどの程度正確に伝えたのかという疑念です(ひょっとするとフランス語から日本語への訳にも同様の疑念があるやもしれません)。ここには翻訳者の技量、製作・編集者の意図、言語の等価性など様々な語り手の意図を変容させてしまう様々な要素があります。映画だけではなく、現在我々が接するパレスチナ問題、ウクライナ問題の報道にもそのような翻訳の要素があることを自覚した次第です。
(ロシア・東欧/前田俊尚)
昨年までの公開シンポジウム情報はこちらから