報告
第30回 公開シンポジウム
「危機」の時代を生きる―そのとき・今ここ・これから―
日時: 2022年6月25日(土) 14:00-17:30
会場: オンライン(Zoomミーティング)
専攻長挨拶:外村 大
趣旨説明:杉山 清彦
地域文化研究専攻主催の公開シンポジウムは、今年で第30回の節目を迎えました。
1993年の第1回「いま、なぜ民族か——地域と文化の再構築」以来、地域文化研究専攻では、世界のさまざまな地域や時代を各自の人文・社会科学の専門分野の立場から研究するスタッフの多様性を活かして、横断的・越境的なテーマを取り上げたシンポジウムを毎年開催してきました。今年度は「危機」をテーマに掲げ、アメリカ・ドイツ・中国に関わる事例・言説・方法から、人類社会における「危機」の諸相について議論しました。
21世紀の今、私たちはどこに立ち、どんな時代を生きているのでしょうか。日常を一変させた疫病禍や自然災害、終わることのない戦争や動乱、社会に走る亀裂と分断——自分たちは「危機」の中にある、という意識は、多くの人びとの間で共有されていると言わざるをえません。
顧みれば人類の歴史は、「3世紀の危機」、「14世紀の危機」、「全般的危機」など、今が「危機」の中にあると意識されたり、後世から「危機」の時代として形容されたりすることの連続でした。同時に、それらの例からも察せられる通り、「危機」とは、それ自体は特定の行為や事物・事象を指すわけではなく、ある観点や価値観よりする一つの認識の表明、ないし形容であるということができます。
では、私たちはどのようなときに何を「危機」ととらえ、それとどのように向き合ってきたのでしょうか。一人一人が生を営む場である「地域」は、「危機」に遭遇したときどのような姿を見せるのでしょうか。それを見つめる私たちは、いかにして「危機」をすくい取るのか、そこに危うさはないのでしょうか。
今回のシンポジウムでは、19・20世紀交替期のアメリカ、20・21世紀交替期のドイツ、そして現代の中国研究という3つのフィールドの報告を通して、過去と現在、また事象と方法を往還しながら、「危機」をめぐる議論が交わされました。
報告1「19世紀末の危機と「アメリカの世紀」の胎動——「社会的なもの」をめぐる闘争から例外主義の再編へ」
中野 耕太郎(地域文化研究専攻)
報告2「危機が語られる時代——「危機(Krise)」という語を通してみるドイツ」
川喜田 敦子(地域文化研究専攻)
報告3「地域研究を支える実証研究の危機とその打開──中国近現代史研究を事例に」
中村 元哉(地域文化研究専攻)
報告1(中野耕太郎)では、アメリカ史上最も甚大で持続的な、しかし知られざる「危機」である19世紀末の恐慌と社会危機に焦点を当て、アメリカ社会のアイデンティティのゆらぎと転換を、世紀をまたいで論じました。それまでのアメリカは、辺境での「絶えざる再生」を国民性のよりどころとし、自らを世界から孤立した例外的な存在と位置づけていました。それゆえ、19世紀後半のフロンティアの消滅はその「例外性」のゆらぎを意味し、同時に、工業化が進行する中で生じた格差・貧困などの社会問題の出現は、アメリカ社会にアイデンティティの見直しを迫ることになりました。国内における、ニューディールに至る「改革の時代」の幕開けと、アメリカン・システムの積極的輸出という、孤立から外向への路線転換とは、この深甚な社会危機に対処するための自己変革の文脈から出てきたものであることが示されました。
報告2(川喜田敦子)では、「危機が語られる時代」としての2000年代以降のドイツに注目し、「危機」についての言説の分析を通じて、「過去」と「未来」のはざまにあるドイツ社会の「今」が論じられました。革命、二度の世界大戦、東西分断が打ち続いたドイツの20世紀はまさしく危機の連続であり、それを反映して、「危機」という語は20世紀に頻繁に使われるようになりました。しかし、東西統一を経て安定を回復したかのように思われる2000年代に入って、ドイツでは「危機」の使用頻度がむしろ急増し、「気候危機」「難民危機」などさまざまな「危機」が語られています。そこにおいては、「危機の時代に民主主義をいかに維持するか」という姿勢と、「いま民主主義が危機にある」という意識とが絡み合いながら議論に表れており、かつて「危機」の中からナチズムが擡頭した苦い教訓をもつドイツの「危機」意識が反映していることが示されました。
報告3(中村元哉)では、中国近現代史研究をめぐる状況を事例として、地域研究を支える実証研究がおかれた「危機」的な状況認識とそれに対する提言が語られました。これまでは、対象地域の言語能力を身につけ、地道に史資料を収集・分析することが地域研究の基本でしたが、急激なデジタル化・IT化やAI導入といった環境・手法の激変で、研究者に求められる力そのものが変化しているといえます。同時に、中国研究が直面しているように、歴史政策の変更など現地の状況の変化によって、史資料へのアクセスや真正性の担保など、実証研究の基盤自体がゆらいでいるという現状があります。そのような「危機」の打開のために、研究対象地域の歴史政策・歴史認識をたえず把握した上で、デジタル環境をフル活用したデータの収集・分析と、従来型の地道な作業の積み重ねとが不可欠であることが、具体的な事例を挙げながら示されました。
本日の3報告は、地域・時代を異にするだけでなく、事象との距離のとり方や基礎に据える素材なども三者三様でしたが、それぞれが取り上げた「危機」と呼ぶところのものが、客観的な事実そのものというよりは、ある観点や価値観よりする一つの認識の表明であり、しばしばある状況下で何らかの意図をもって発される語であることという点で、理解を共有していたといえます。
報告に続けて、シンポジウムの後半では、2人のコメンテーターと参加者を交えた討論が行なわれました。
コメント1:田中 創(地域文化研究専攻)
コメント2:宇野 真佑子(地域文化研究専攻博士課程)
コメント1(田中創)では、古代ローマ史の立場から、「危機」の語源となったギリシア語の原義は、何事かの分水嶺を意味するものではあるけれども必ずしもネガティブな結果まで含意するわけではないこと、また、点的なイメージであって、持続的な状況をいうものではないことが紹介されました。その上で、歴史的にあまねく見られる終末論などの「危機」言説には、ある事象の危険性を認識させようとする注意喚起、それを契機に共同体の紐帯をつくり直そうとする再結合、よりよい方向性への転回を意味する革命、といった意図があることを指摘しました。そして、そのような「危機」言説は、語りかけられた人びとに何かを見出させようとする仕掛けであることから、では「見えないものを見るために何をすべきか」、という問いが投げかけられました。
コメント2(宇野真佑子)では、現代の東ヨーロッパ(クロアチア)を研究している知見を生かしながら、それぞれの報告に対し、質問が提示されました。とりわけ、「危機」を語ることがラディカルな政策の正当化や個々人の自由に対する制約に転化するおそれについて、ドイツでどのように考えられているのか、という質問は、本日の川喜田報告に対してだけにとどまらず、フロアの参加者も含めた私たち全員に投げかけられた問いともいえるでしょう。
さらにフロアからは、一人一人の不満や不安が全体へのメッセージとしての「危機」認識の表明となるとき、いったいその「危機」を語るのは誰か、誰が「危機」を認定する資格をもつのか、という問いが発せられ、各報告者と議論が交わされました。また、ギリシア語だけでなく、古典漢語における「危機」という語の原義とニュアンスが提示され、地域文化研究専攻がそなえる知の広がりを感じさせる一幕もありました。
多くの人びとが、現在自分たちが「危機」の中にあると認識していると言わざるをえない今、「危機」なるものについて考えを深められたことは、今日的意義をもつとともに、地域文化研究のもつ射程の長大さを示したものといえるように思います。当日は、オンライン上で終始100人前後の参加を得て、盛会裡に終わりました。参加いただいた方々にとって、いま自分とその社会が置かれている状況を見つめるときのよすがとなることを願っています。
司会・文責:杉山清彦(地域文化研究専攻)
在学生によるリアクション・ペーパーから
環境や経済など多くの面で、過去よりも良い未来が日に日に想像しづらくなり、「危機」のレトリックが氾濫している現代において、本シンポジウムは「危機」の認識的でパフォーマティブな側面に焦点を向け直し、「危機」の過度な客観化に警鐘を鳴らすものとして、極めてアクチュアルであった。
中野先生のご報告では、19世紀末アメリカの危機の、「外発的な問題」ではなく「内在する問題」の側面に重点を置くとされていたが、様々な時期でアメリカがヨーロッパを強く意識しながら、自身の後進性、先進性を見出し、問題化していた点が興味深かった。「危機」からは「非常状態」などが連想されるが、「危機」は主体が思い描く「常態」を浮き彫りにするものでもあり、他者との関係や比較と切り離せないという印象を持った。
川喜田先生のご報告は、歴史的意味論や概念史の観点から、「危機」という語の、発話側の「名付けと認識」の側面だけでなく、受け手側の解釈や共感にも焦点を当てたものだった。「危機」の認識の振れ幅に迫り、曖昧さに帰結されがちな「危機」をめぐる議論に具体性を見出す可能性を提示された。
中村先生のご報告は、デジタル・ヒューマニズムやパンデミックの時代における「地域研究の危機」をめぐる画期的なものであり、最新の技術に疎い聴者は大きく啓発され、自省を促された。田中先生が提起されたアウトリーチの問題も踏まえると、このような危機的な状況を、いかに広い受け手にとってアクチュアルなものとして伝達できるかが重要に思われた。現代では「危機」が氾濫し、「危機」のレトリックに対するシニカルな目線も予想されるので、それぞれの「危機」を差別化し、核心に迫る発信の手法が求められるように思われる。
全体として、「危機」の解決に向けて迅速なアクションを取ることと、「危機」の主観的な側面への冷静な眼差しの間で、バランスが求められる現代において、重要なヒントが多く提示されたシンポジウムであった。
(ロシア東欧/堤 縁華)
今日のシンポジウムを拝聴し、アメリカにおける世紀転換期の危機、「危機」をめぐる言説、実証研究の危機について、色々勉強になりました。地域・時代横断の報告を聞いて、「危機」はまさにどの時代においても、どの地域においても絶えず起こっている事象であると感じました。それゆえに、それぞれが危機を特別なアクシデントとして扱うよりも、人間社会のノーマルな状態として考えて、グローバルな視点で研究して共通点を抽出し、人間は危機に直面したときどのようにすべきなのかを検討する必要があるのではないかと思います。例えば、危機の時代の民主主義への関心はアメリカでもドイツでも共通しており、中野先生がおっしゃったように、「平等、民主主義、自由」などの普遍的な言葉を危機の時代で考え直す必要があるのです。
また、石井剛先生が質問の中で提起した「危機」という語の意味合いもとても興味深いものでした。私は、それを「危険な機会」として理解しています。危機となる事象自体が否定的な意味を持っている一方で、その事象が独裁主義などを助長する機会として利用されると、さらなる二次的な危機を招いてしまう可能性もあるでしょう。例えば、コロナ禍を機に深刻化したデジタル監視や、「難民危機」を利用したポピュリズムの台頭などが挙げられます。このような課題について研究することによって、「危機」に対する理解を深めることができるのではないかと思います。
さらに、今日の報告のほとんどはマクロ的な視野で危機について検討してきましたが、個人的な、ミクロ的な危機についての研究も不可欠なのではないかと思います。エスノグラフィーなどの手法を使って、個々人が直面している日常生活の危機を分析し、それと各時代・各地域の危機とどのような関連性を持っており、どのように共鳴しているのかを研究することも価値があると思います。
(アジア/郭 海涵)
「危機」という意識には、ある種の未来に向けた動き(「再考しなければ」、「行動しなければ」という衝動)が含まれているという指摘が何度もなされた。この点はとても印象に残った。同時に、緊急事態だったはずのものが全く日常化された現在の日本において、このような危機意識がどれぐらい働いているかについては、大いに疑問に思っている。
また、この問題を大きく捉えた場合は、大学の使命とも深く関わるように思うが、その場合に地域文化研究専攻の果たすべき役割は何だろうか。今回のシンポジウムにおいては、この点はあまり重視されなかったと私は感じた。言い換えれば、「そのとき」や「今ここ」についてはともかく、「これから」については十分議論されなかったのではないか。
石井剛先生は、変えるべきことと変えるべきでないことについて考える際に何を基準にすればよいのか、という意味の質問をされたと思うが、この問題をめぐる先生方の議論をもっと聞きたかった。黒い画面に白い文字というとんでもない世界の中で修士の2年間を過ごした者として、ぜひとも危機意識をもって今後の大学の「あるべき」を再構築していただきたいと思う。
(アジア/ニコロヴァ,ヴィクトリヤ)
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