報告

第28回 公開シンポジウム 
 ぐうたら、酔いどれ、ならず者 ─ 文学におけるアンチ・ヒーローの系譜 ─

日時: 2020年10月31日(土) 14:00-17:30
会場: オンライン(ZoomWebinar)

専攻長挨拶:森井裕一
趣旨説明:中尾まさみ
地域文化研究専攻では、さまざまな地域、時代、専門領域をカバーするスタッフの研究の多様さを活かし、横断的・越境的なテーマを採り上げてシンポジウムを開催してきました。今年度は、「アンチ・ヒーロー」をキーワードとして、異なる地域と時代を専門とする三人の文学研究者が報告を行いました。
英雄叙事詩が文学の端緒のひとつとなったように、輝かしいヒーローは、時代・地域を問わず人々の憧れを体現してきましたが、文学はまた、これでもかと言わんばかりに、それとはかけ離れた悪漢、はみ出し者、破天荒な人物などのさまざまな変奏を造型し、人々を呆れさせ、嫌悪させ、そしてときには激しく魅了してきました。このシンポジウムでは、16-17世紀スペインのピカレスク文学、19-20世紀ロシア小説、21世紀のウェスタン、ハードボイルド小説・映画の具体例の詳細な検討から、アンチ・ヒーローたちの多様な造型とそれを生んだ文化や社会との相関、さらには時代や地域を超えて繰り返されるモチーフや主題についての議論が行われました。

報告1:〈グロテスクな世界〉の現出--ケベードのピカレスク小説におけるアンチ・ヒーロー像
竹村文彦(地域文化研究専攻)
報告2:もう一つの生き方--希代の怠け者オブローモフと過激な酔いどれヴェーニャの生涯
安岡治子(地域文化研究専攻)
報告3:アメリカン・アンチヒーローの西部
--21世紀のウェスタンとハードボイルド探偵小説におけるヒーロー像の変容
井上博之(地域文化研究専攻)

報告1(竹村)は、16-17世紀スペインで書かれたピカレスク小説(悪漢小説)におけるアンチ・ヒーローの人物像について、フランシスコ・デ・ケベード作『ぺてん師ドン・パブロスの生涯』(1604頃執筆、1626出版)を中心に分析しました。騎士道物語と呼ばれる文学ジャンルの大流行への反動として誕生したピカレスク小説は、それまで物語文学の中でほとんど取り上げられることのなかった下層の人々の暮らしや心情に光を当て、リアルに描いた点で画期的でした。しかし、『ドン・パブロス』は、極端な誇張や歪曲、糞尿譚やブラック・ユーモアを駆使して、むしろ反リアリズムとも言える〈グロテスクな世界〉を現出させたところに、その独自性があります。報告ではまた、ジュゼッペ・アルチンボルドの絵画を援用して、〈断片化〉、〈物体化〉し、格下げされる人物像を、そうした表現の一例として詳説しました。
報告2(安岡)は、ソヴィエト時代に生まれた「社会主義リアリズム」小説の模範的主人公、ポジティブ・ヒーローと対極をなす、ロシア文学伝統に根ざした二種類のアンチ・ヒーロー像を紹介しました。「オブローモフ気質」という語まで生まれた、イワン・ゴンチャロフ作『オブローモフ』(1859)の主人公は、高邁な思想をもちながら何一つ具体的な行動を起こせない「余計者」の系譜の人物ですが、幼馴染の合理的実務家シュトルツとの対比において描かれるとき、そこには「停滞、受動性」の「東」と、「進歩、積極性」の「西」という対比が読み取れます。しかし、ロシア英雄叙事詩最大の英雄イリヤ・ムーロメツと同じイリヤの名をもつオブローモフは、ムーロメツが前半生30年間を寝たきりで過ごした後に大活躍した事を考えれば、何かロシア的な存在意義をもつとも読めそうです。ヴェネディクト・エロフェーエフ作『モスクワ―ペトゥシキ』(1970)の、作者と同名の主人公の終始酩酊状態の列車の旅と非業の死は、他テクストからの膨大な引用やパロディに彩られ、キリストの受難の道行きにも重ねられますし、ロシア独特の聖人瘋癲行者の姿も垣間見ることができます。報告は、西欧を中心とした近現代社会の価値観では切り捨てられていたはずのアンチ・ヒーロー像のありようを解明しました。
報告3(井上)は、アメリカ的な英雄像を提示するための特権的な舞台となってきた西部の両義的なイメージを担ってきた、ウェスタンとハードボイルド探偵小説の21世紀的な展開を考察しました。パトリック・デウィット作『シスターズ・ブラザーズ』(2011)は、殺し屋である主人公が追跡する敵対者と友好的になって善悪の二項対立を揺さぶり、一人称で弱さをさらけ出してウェスタンの規範的ヒーロー像を逸脱します。トマス・ピンチョン作『LAヴァイス』(2009)では、ヒッピー崩れのダメ男の探偵が、孤高のタフガイとしてのアメリカン・ヒーロー像を転覆します。報告では、こうしたアンチ・ヒーローの考察をとおし、様式化したジャンルの型が新しい物語を再創造するための源泉となっていることを指摘しました。

後半では二人のコメンテーター、フロアも交えた質疑応答が行われました。
コメント1:山口輝臣(地域文化研究専攻)
コメント2:上杉未央(日本学術振興会RPD)
コメント1(上杉)では、『赤と黒』(1830)、『レ・ミゼラブル』(1862)、『純な心』(1877)などのフランス小説の例で補強しつつ、18世紀以降の小説において曖昧化したヒーロー/アンチ・ヒーローの線引きについて、また、騎士道小説でヒーローに試練を与え、また物語の原動力ともなる「愛」のアンチ・ヒーロー作品における位置づけについて問題提起がありました。
コメント2(山口)は、『マグニフィセント・セブン』(2016)で再解釈された西部劇映画『荒野の七人』(1960)が黒澤明の『七人の侍』(1954)を下敷きにしていること、さらにはその黒澤が西部劇の手法を参照していたことを例にとり、既存の「型」の逸脱や更新としてのアンチ・ヒーロー文学/映画の、先行作品との影響関係や距離についての議論を促しました。
このほか、アンチ・ヒロインやその不在、「思いがけないヒーロー」像との関係など、来聴者からも多様な質問が寄せられ、活発な議論が行われました。アンチ・ヒーローは、安易な定義づけを許さず、その非・英雄的ふるまい、あるいは何もなさないことそれ自体が、英雄との境界を曖昧化し、ジャンルを脱構築さえします。むしろ、そうした攪乱の契機こそが、こうした人物の一つの目印であると言えるかも知れません。今回触れることのなかった時代や地域の例も含め、参加者それぞれの中にさまざまな連想を呼び、新たな議論の端緒となれば、本シンポジウムの意義は果たされたのではないかと考えています。
司会・文責:中尾まさみ(地域文化研究専攻)


在学生によるリアクション・ペーパーからの抜粋

オブローモフと「ぐうたら」というテーマに関連して、「ぐうたら」は「時間意識」という観点からどう理解できるのか疑問に思った。つまり「ぐうたら」は、どのような時間感覚から成り立ち、どのような時間の捉え方になっているのか。オブローモフの立場はこうだ。彼は、目まぐるしく駆け回る人々の様子を見て、そこには人間らしさが欠けていると考える。そんなに忙しなく行動して、いったい何になるのかと言わんばかりに。このようなオブローモフを「ぐうたら」とするならば、「ぐうたら」を特徴付けるのは、怠け、無為、無気力となるだろう。
では、「ぐうたら」の「時間意識」とはどのようなものだろうか。「目まぐるしく駆け回る人々」の時間意識と「ぐうたら」の時間意識を対比させてみたい。すると前者は、未来の目標に向かって何かをしている、あるいは将来に向けて何かをしていて、「将来」に重点が置かれていると言えよう。例えば、未来の目標に向かって大学で学ぶ、将来のあるべき社会に向けて問題解決に取り組むといった具合に。他方、後者の「ぐうたら」は、そうした行動に人間らしさの欠如を見る、将来に重点を置かない時間意識だと言える。
やや話はずれるが、今日よく耳にするような「生産性最優先」や「効率性至上主義」は、「ぐうたら」の対極である。では、「ぐうたら」は不要なのか。忙しなく行動し続けていると、ふと自分はどこに向かっているのか、将来に向けた今の行動に何の意味があるのか、そう自問自答するときがあるのではないのだろうか。そしてそのとき、「ぐうたら」の必要性が見えてくるのではないだろうか。オブローモフは、帝政ロシアにおける青年知識人の挫折という時代背景を反映した側面がある。それはたんなる「ぐうたら」というよりは、無気力としての「ニヒリズム」と言った方が適切かもしれない。しかしながら、時代を越えて、またたんなるニヒリズムとは別の意味で、オブローモフ的な「ぐうたら」には重要性があるように思われる。ニヒリズムから逃れ、未来を全否定することなく、同時に今を生きること(現在の生)を肯定すること。そのような「ぐうたら」についてのヒントが、『オブローモフ』にはあるのかもしれない。
実は、自分の専門分野(フランス思想)のある思想家を念頭に置きながら、「ぐうたら」について考えていた。ジョルジュ・バタイユ(Georges Bataille, 1897-1962)である。バタイユは、ニヒリズムに全抵抗しながら、今を生きることを全肯定した、と私は理解している。それは「時間」をめぐる思想でもあり、「生産性最優先」や「効率性至上主義」を問い直すような思想でもあるのだが、そこにはなにかしら「ぐうたら」と共鳴するところがあるように思う。                           (フランス/谷虹陽)

今年度の専攻シンポジウムでは、3名の専門を異にする先生方が「アンチ・ヒーロー」をキーワードとしてご報告されました。歴史研究を専門としながらも、文学研究にも長年関心を抱いてきた筆者からしてもとても興味深いシンポジウムでした。  
竹村文彦先生のご報告「<グロテスクな世界>の現出--ケベードのピカレスク小説におけるアンチ・ヒーロー像」では、フランシスコ・デ・ケベードの著作『ぺてん師ドン・パブロス』、安岡治子先生のご報告「もう一つの生き方--希代の怠け者オブローモフと過激な酔いどれヴェーニャの生涯」では、イワン・アレクサンドロヴィチ・ゴンチャロフの著作『オブローモフ』、ヴェネディクト・エロフェーエフの著作『モスクワ--ペトゥシキ』、井上博之先生のご報告「アメリカン・アンチヒーローの西部--21世紀のウェスタンとハードボイルド探偵小説におけるヒーロー像の変容」では、パトリック・デウィットの著作『シスターズ・ブラザーズ』、トマス・ピンチョンの著作『LAヴァイス』が論考されました。今回紹介されたどのアンチ・ヒーローもどこか憎めない我々自身にある種の共感を訴えるようなそんなキャラクターに思えました。  
個別報告の後の、コメンテーターのお二人の先生方の提示された論点、並びに、フロアからの質問とそれへの応答も目を見開かれるような議論が展開され、歴史研究者の立場からも大変勉強になりました。とりわけ、上杉未央先生がご指摘されたヒーローとアンチ・ヒーローの差別化の難しさは、アンチ・ヒーローの本質を問う核心的な論点であり、アンチ・ヒーローを他の登場人物との関係性の中に位置付け直す必要性が訴えられたように思います。加えて、山口輝臣先生の伝統的な型との合致、それからの逸脱、或いは、社会変化と型との関係性も、歴史研究者としての非常に共感を覚える問いの提示のされ方でした。
本シンポジウムを通じて思い起こしたのは、アメリカ人のフランス史研究者であるリン・ハントの議論です。リン・ハントは「共感」をキーワードとして、18世紀に「人間は生まれながらにして等しく権利を持つ」という「人権」の概念が如何にして花開き根付いたかを考察しました。その際に、書簡体小説の流行も一つの論拠として挙げられました。小説を読むことにより、人々は小説世界の登場人物に共感し、時に涙を流し、自分とは異なる身分、ジェンダー、人種の人々の生活を想像することができたというのです。その意味で筆者も、本シンポジウムで紹介された作品とそこに登場するアンチ・ヒーローの肖像を通じて、人々がどのように自己とアンチ・ヒーローを時に重ね合わせ、時に相対化し、虚構世界を現実世界を映し出す鏡として機能させてきたのかが気になりました。本シンポジウムは、翻訳者ご本人からの作品解説という意味でも非常に贅沢な企画でした。この度は、誠にありがとうございました。                          (ドイツ/瑞秀昭葉)

空間的にスペイン、ロシア、アメリカを横断し、五百年以上の時間的射程の中でアンチ・ヒーローの系譜を辿るこのシンポジウムは、豊かな情報が次々提供されていくだけでなく、スリリングな議論も展開され、聴衆の一人として大きな喜びを感じながら拝聴しました。
個人的に、コメンテーターの提起したアンチ・ヒーローの定義の問題に関して、定義することの難しさも重要ですが、そもそも定義ということ自体が後付けであるということをより意識する必要もあるのではないかと思いました。文学史上人物に特定のモデルや型を見つけ一つのカテゴリーを作ることは多々ありますが、作者はそのカテゴリーの条件を満たすために人物造形や物語を創作しているわけではありません(もちろんそういう場合も存在はするのですが)。マクロな視点で共通性を見出すことと、ミクロな視点で個々の作品を見ることの両方を全体で達成しているこのシンポジウムの総括的な議論としては、少し単純化へと偏ってしまう危うさがある印象でした。
また、アンチ・ヒーローが背負っている最大のものとして、「アンチ」である、何者かに対抗する形で理解され、逆に言えば何者かが先に存在する前提に依拠しきっていることが挙げられると思います。ヒーロー「でない」ことは、必ずしも全ての性質において正反対であることを意味せず、アンチ・ヒーローはヒーローより遥かに広い可能性を持つ存在である(とされている)と感じます。「何々の他者である」という視点が時には印象の押しつけ、仮定、濫用、僭称などに繋がることは、あまりにも有名なオリエンタリズムの議論やそれに準ずるもので繰り返し証明されてきました。アンチ・ヒーローの定義の問題は、さらに多面的に考察される必要があるように感じます。         (ロシア・東欧/堤縁華)

それぞれのご報告を大変興味深く拝聴しました。竹村先生のご報告では、人間である登場人物が次第に動物、モノになぞらえて表現される描写を用いることで、グロテスクな世界を映し出すことに成功していると伺いました。排泄や嘔吐など、人間として自分の身体にコントロールができていない状態を映し出すことによって、ただ単に汚いものを体から出す存在としてだけでなく、社会的な生き物として存在する人間の境界をまたぐ存在としてアンチヒーローが設定されていると考えました。
また、安岡先生のご報告では、オブローモフとヴェーニャという2人のアンチヒーローを取り上げて、絶妙なユーモアと登場人物としての魅力が彼らの規範や周囲の言動からずれた行動に現れていることを伺いました。特に、オブローモフシチナという造語について、オブローモフの一連の言動から生まれたにもかかわらず、この語を知るとその後の話の展開においてもこの語で彼の言動をとてもよく理解できてしまう不思議な力があると感じました。
最後に、井上先生のご報告では、遅れてきたあるいはズレているアンチヒーローという視点から二つの作品を取り上げ、通底する西部の過去、現在、未来(あるいは過去のベターなやり直し)を両作においてみることができると伺いました。最後に触れられていた、西部でやり直す・西部を自ら書き直すという行為は、両作におけるアンチヒーローたちが自己批判を繰り返しもがきながらも自らが信ずるヒーロー像を組み立てようとする過程を的確に表しており、例えば実家に帰る、歯を磨く、過去を悔やむ、泣くなどの一見弱々しいように見える彼らの言動ひとつひとつを理解する上で有用であると考えました。  (北米/髙橋茜)

今回の発表を受けて感じたことは、やはり悪役とアンチヒーローは根本的にあり方が違うということである。私は古今東西を問わずヒーローものが好きであるが、受け取る側の共感を意識してか、ヒーロー然としていない、等身大の人間として悩み葛藤する主人公である作品を目にすることが多く、またそうした作品を好む傾向にある。そんな彼らが成長していく様が物語の一つの主軸となる一方、見所となるのは彼らの側にいるもう一人(以上)のヒーロー、そして彼らに対峙する敵陣営である。井上先生の発表を聴いた後では(実際敵味方が入り乱れる作品も多いこともあり)、こうした単純な二項対立を安易に用いるのは気が引けるが、味方陣営はどのような性格(一貫している、主人公より人間くさい、etc…)であれ、往々にして主人公との関わりの中で性格に変化が訪れることがひとまずは多いように思う。そんな中で、悪役というのはひたすらブレることのないキャラクターとなっている。私の鑑賞したことがある作品に限って言えば、悪役がブレないほど、そのキャラクターが魅力的に思え、ひいては作品全体の評価も個人的には高くなる傾向にある。尤も、その悪役たちの自分の目的のためであれば手段を選ばない外道っぷりたるや、不愉快さすら覚える人もいるようであるが。こうした構図は、大衆向け作品においてはある意味定石であり、わかりやすく誇張されているものが多い。つまり、主人公とは対極に配置することで、その二項対立を明確にしているのであろう。ある作品に対して語り合う友人曰く、ブレないキャラクターが好き、とのことで、彼らの行為そのものは認めないまでも、そうした一貫した姿にある種の憧憬を抱くものもいるのかもしれない。
しかし、今回のアンチヒーローはどうであろうか。彼らはヒーロー以上に人間であり、憧憬というよりもむしろ同情、果ては親近感すら覚える部分もある。現実を超えたグロテスクな世界を描出したケベード、「現代の資本主義社会ではある意味で『無職』こそが最強」と主張する知性を備え、一種の悟りを開いたニートにも通じる精神性の持ち主であるオブローモフ、善悪二項対立の解体に挑んだキャラクター造形のハードボイルド小説などなど、今回のウェビナーに登場するアンチヒーローはいずれもヒーローありきの物語に引かれた善悪の境界線を軽々と飛び越える。これらのことから、アンチヒーローとは、現実に存在する我々の誰しもが、悪役には憧れるがなれはせず、ひたすらに己に向き合い醜さも受け入れていく「ヒーロー」になる可能性を備えていることを教えてくれる存在、と好意的に解釈することはできはしないだろうか。 近年どうしてもわかりやすい構造の作品が多く感じられ、特に映画にそういったものが多い印象を受けるが、やはりいつの時代も優れた作品というのは、我々人間とはどうあるべきか、よりも我々人間とはなんなのか、を問う作品に軍配が上がるように思えてならない。                    (中南米/佐々木伶)

今日は三つの報告とコメントを聞き、大変勉強になりました。アンチヒーローを論じる際、ヒーローの概念について認識する必要があると思う。誰が規範的ヒーロー像を規定したのかという基準から、権力関係を窺えると考える。三つの報告の中で強調されたのは、やはり善(good guys)/ 悪(bad guys)の二項対立の枠組みから脱出し、考え方を変えるべきだということだと考える。
ヒーローというと、最初に頭の中で出たのは、ハリウッドの映画である。例えば、「エックスメン」シリーズや、「バットマン」シリーズ、「スーパーマン」シリーズなどの作品である。ハリウッドの影響力の拡大に伴い、ヒーロー=白人男性という人種やジェンダーの固定化が世の中で広がっている。この意味において、白人男性を中心とするヒーローの形への批判とヒーローを見直す必要があると考える。
やはりアンチヒーローの定義が難しい。時代や地域によって具体的な内包が異なると思う。私の出身地中国においても、アンチヒーローを通じて社会を風刺する作品も多い。名作である『阿Q正伝』という中国の作家魯迅の小説があげられる。作品の中で、阿Qという最下層の人間を主人公に設定し、それを縦横無尽に活躍させることにより、巧みに農村社会ひいては全体社会のさまざまな人間タイプの思考や行動の様式を浮き彫りにしている。また、「奴隷」的精神に支配された国民大衆がそこから脱出する見通しを持ち得ない20世紀20年代の中国社会の絶望的閉塞性を示す。言い換えると、アンチヒーローの描写により、社会の実況を示し、世間に対して社会を見直す心得を与えるという機能があると考えられる。
近代社会へと移行する過程で、個人は伝統的な共同体から解放されつつある。個人化が進行する中で、アンチヒーローへの注目は大切になった。まさにこれらの人物を描写することで時代の流れを同時に物語られるかもしれないだろうと考えられる。(アジア/王淑玉)







昨年までの公開シンポジウム情報はこちらから


クリックすると拡大します。