報告

第27回 公開シンポジウム 『〈身体〉からみる地域─ 医療・衛生・宗教実践 ─』

日時: 2019年6月29日(土) 14:00-17:40
場所: 東京大学駒場Ⅰキャンパス18号館ホール

専攻長挨拶: 木宮 正史
趣旨説明: 田原 史起

地域文化研究専攻では、全世界の各地域と前近代と近代、そして人文学から社会科学に跨る幅広い専門領域をカバーするスタッフを活かし、横断的・越境的なテーマを取り上げてシンポジウムを開催してきました。今年度は〈身体〉をキーワードとしてとりあげ、異なる地域と時代を専門とする三人の歴史学者の報告で構成されました。
人間の〈身体〉そのものは、時代を通じて大きく変化するわけではなく、また民族間・地域間の差異も相対的には小さなものです。しかし、その〈身体〉がある時代の文化の中で果たす役割や、〈身体〉に託された意味には、はるかに大きなバリエーションがあります。例えばスペイン植民統治下の南米アンデス先住民、18世紀フランス・パリの民衆層、あるいは近現代インドのジャイナ教徒において、人々の〈身体〉とはいったいどのような場であり、いかなる問題を投げかけているのでしょうか。このシンポジウムでは、〈身体〉に深く関わる医療や衛生、宗教実践などの角度から、植民地権力と在地社会、伝統医学と近代医学、慣習と法、などの諸要素が人間の〈身体〉を拠点としてせめぎあうのみならず、時として相互に浸透し合ってきた複雑な様相が、豊富な事例とともに描き出されました。

報告1「植民地期アンデス先住民の心と身体 ─ 偶像崇拝根絶巡察を中心に」
網野 徹哉(地域文化研究専攻)
報告2「18世紀前半パリのジャンセニスムと痙攣する身体
─ 内科医エッケの檄文にみる医学と病気治し」
長谷川 まゆ帆(地域文化研究専攻)
報告3「近現代インドにおける身体・宗教・法 ─ 断食死をめぐる論争」
井坂 理穂(地域文化研究専攻)

網野報告では、16–17世紀のアンデス社会を舞台として、スペイン人宣教師とインディオの関係が描かれました。宣教師側が唾棄したアンデス先住民の「汚れ」は身体に付着した外面的・物質的な汚れであったのにたいし、先住民にとっては「汚れ」とは精神的なものであり、スペイン人の方こそが汚れているとする独自の心身観に基づき、「敢えて不潔でいる」という生き方を展開したと指摘しました。
長谷川報告では、18世紀パリの民衆層の間に広まっていたジャンセニズムの下では、当時のフランス社会が重層的に描き出されました。王権による弾圧の下で執筆された外科医フィリップ・エッケの文章を中心として、その医学においては宗教信仰・奇跡と医学知識とが矛盾なく連続していたことが明らかになりました。
井坂報告では、インドのジャイナ教徒たちの間で実践されてきた断食死(サッレーカナー)の慣習をめぐる近年の裁判とそれにまつわる論争を切り口として、ジャイナ教徒の身体・生命観、裁判の起きた地方の社会的背景、宗教を超えた尊厳死・安楽死に関する議論とも絡めながら、「身体」をめぐる個人、宗教コミュニティ、国家の関係が多角的に論じられました。
 シンポの後半では専攻内部からの二人のコメンテーターとフロアも交えた質疑応答が行われました。

コメント1 福井 祐生(地域文化研究専攻 博士課程)
コメント2 杉田 英明(地域文化研究専攻)

まずコメント1では、宗教思想史の立場から、ニコライ・フョードロフ、グレゴリオス・パラマス、井上洋治などの思想を補助線として、18世紀フランスで信仰と理性のバランス関係が如何にして可能であったのか、ジャイナ教徒の主観としての身体の捉え方はどのようなものだったのか、植民地期アンデスでキリスト教の側から現地社会に歩み寄るような側面はなかったのかなど、三報告に対するコメントと質問が提出されました。
つぎにコメント2では、三つの報告の共通点を、異なる宗教や信仰、異なる文化のはざまで、二項対立・二元論を超えていかに両者の折り合いをつけていくことが可能か、という歴史的実例を提示したものである、と総括されました。そのうえで、エジプトの小説『ウンム・ハーシムのランプ』を題材として、それを伝統と近代、信仰と科学、東洋と西洋などの二項対立を文学作品中で調和的に解決する試みのもう一つの事例として提示しました。
総じて、それぞれの報告は固有性に富んだ内容でありながら、身体や宗教実践などの事例から、二項対立の調和ないしは超克という共通の論点が浮かび上がり、時代や地域を超えた議論が展開されました。この点で、冒頭の専攻長挨拶にもあったように、本シンポは「地域文化研究を楽しむ」企画として有意義であったと思います。

司会・文責 田原 史起(地域文化研究専攻)


在学生によるリアクション・ペーパーからの抜粋

現代社会に生きる私たちは、自分たちの「身体」は個々人の所有下にあることを自明のものと捉えがちである。しかし、本日の三人の報告からは、確かに個人の身体は一人一人の所有の下にある一方で、身体性そのものはより大きな権威や権力(国家、地域、コミュニティ、宗教、社会規範など)に規定される、あるいは規定され続けてきた歴史の動きというものを改めて実感させられた。その一方で、三報告に共通して印象的であったことは、国家や植民地権力によって規定された身体性に対し、それに抵抗する身体性が被支配者側から提示されているということ、また両者の間には自身が抱く/求める身体性、身体像、またそれをとらえるまなざし、視点そのものに大きなズレが存在する、という点である。
(アジア/石崎睦)

異なる地域、異なる時代の発表でしたが、「身体」というキーワードを軸とすることで、様々な意見、議論がされていてとても刺激になるシンポジウムでした。
(西アジア/博田智)

サッレーカナーをどう捉えるべきかという問題については、単に宗教的伝統にとどまらない。人間の存在に賦与される価値の問題をはらんでいる。安楽死との比較が許されるのであれば、安楽死は自らの生の快い終わり方の探求であり、サッレーカナーは次の新しい生に向けた現世の潔い終わり方の定式である。これは人間の生に人々がどのような意味を与えるのかという本質的な問題への一つの回答・提言であり、「私はこう信じている」という信仰の表明でもある。…死の選択は身体との決別である。宗教的実践はこれに大きく関与してきたが、近代の諸価値はこれに具体的な調停案を提供することが難しい。…これからのインドのアクションが、死と身体をめぐる人間本性への現代的考察に大きく貢献するのだろうと感じた。
(野間口慎)

本シンポジウム全体の感想としては、このような会が普段の地域文化研究における学びを象徴するものである、ということだ。地域・時代も異なるレベルの研究を参照する、ということは、必ずしも実証的なレベルで成果を得る、ということには繋がらなくても、自分自身の認識枠組みを揺さぶるという意味で、非常に価値があると感じた。
(村上慈朗)

近代化・経済発展を遂げた国に住む人々は、物質的・経済的な豊かさこそ人々の幸福をもたらすものであるという観念を共有しているように思います。すなわち、〈身体〉を自然・周囲の存在物から疎外し、生の根拠を〈身体〉の外部に求めているのではないでしょうか。逆に、(網野報告にあったような)先住民の人々は、〈身体〉を自然・周囲の存在物と一体化させ、生の根拠を〈身体〉の内部に求めていたように感じます。
(韓国朝鮮/桜木優樹)

身体について東欧地域で考えたときに思い出したのは、ティモシー・スナイダーの『ブラッド・ランド』のホロドモールに関する話である。食べるものがないユダヤ人が瘦せこけていると、瘦せているということがソ連の支配に対する抵抗、いやがらせ、不満の表れと考えられ、より迫害の対象となるというというエピソードであった。
(ドイツ/竹内香奈子)



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