報告
第24回 公開シンポジウム 『今、人文・社会科学に何ができるか?』
日時: 2016年6月25日(土) 14:00-17:30
場所: 東京大学駒場Ⅰキャンパス18号館ホール
報告:
1. リベラルアーツとしての地域文化研究
石井洋二郎 (東京大学理事・副学長)
2. 地域研究と政策対話:日韓間の懸案を事例として
木宮正史 (地域文化研究専攻、グローバル地域研究機構・韓国学研究部門長)
3. 地域研究の視座と文脈──米国研究からの問い
西崎文子 (地域文化研究専攻、アメリカ太平洋地域研究センター長)
今回の企画はこれまでのように単に「地域横断的」なものにとどまらず、本地域文化研究専攻のほとんどすべての構成員に共通するテーマを期せずしてとりあげることになった。2015年6月の文科省通達に触発された面もあるが、むしろ、シンポジウムという場を借りて、つねにわたしたちの胸にくすぶっている「こんな学問をしてどうなるのか」という根本的な問いに、報告者3名とコメンテーター3名が向き合った。
まず、石井洋二郎は「そもそも役に立つ学問とは何か」をわたしたちに問いかけ、「地域文化研究」という学問に積極的な意味づけをした。続く木宮正史は自身の研究者としての歩みから説きおこし、日韓の政策対話が両国の関係に影響を与える可能性を投げかけた。西崎文子も自身と「アメリカ」との出会いから説き起こし、米国以外の他地域で生を受けた研究者が米国研究に携わることの面白さを「視点のズレ」から説明した。
これらベテランの報告に対し、現役院生2名を含む若手が果敢にコメントした。町本亮大は19世紀のイギリス思想史記述から、細川瑠璃は人文・社会科学と自然科学を跨ぐ研究対象の存在から、金伯柱は多国間国際研究の試みから、それぞれなるほどと思わせる見解を提示した。その後のフロアからの質問とそれに対する応答からも、地域文化研究の可能性や、有用性のもつ意義について活発な議論がなされた。
地域文化研究専攻では、2015年に院生フォーラムが発足した。今年の公開シンポジウムは、院生フォーラムが公開シンポジウムに積極的にかかわった最初の試みである。来年度もコメンテーターとして院生に参加してもらう予定である。来年、壇上にいるのは、このウェブサイトを読んでいるあなたかもしれません!
≪シンポジウムに出席した在籍学生のリアクション・ペーパーより≫
工学を勉強している友人に「あなたたちはいったい何を学んでいるの?」という質問をもらったことがある。あの時私は「形のないものを勉強しています。」と答えた後、ちょうど駅の前であったから、「例えば、電車を作ったり、電車を動かすのは私たちの仕事ではないかもしれませんが、その運賃を決めたり、規則を作ったり、システムを作ったり」という、極めて個人的な意見を述べたことがある。つまり、私は人文学と社会科学自体がその存在意味を持つことはもちろん、その価値を十分に発揮するためには自然科学との「同行」が必要であると思うのである。
上記のような意見はすでに多くの人々が考えているものであると思われるが、「同行」を可能とする、あるいは「同行」しなければならない理由を、今日のシンポジウムで見つけたような気がする。それは、人文・社会科学が、「今」を生きている「人類」の「現位置」を教えてくれるからである。まず、石井先生の報告の中で、とりわけ最後のところに、「リベラルアーツとは単なる一般教養の同意語ではなく、人間を種々の拘束や強制から解き放って自由にするための学問である」という部分があった。つまり、リベラルアーツは人類を、まず、社会と時代などから一歩離れることを可能にする。graphにたとえると、社会(X軸)と時代(Y軸)から離れた「点」を想像してみよう。二人目の、木宮先生の報告の中、「日韓対話」に関する先生の経験は日韓が対話(=知的交流)を通じて問題の解決を目指していく中で、日韓が互いの立場、位置を再び確認する機会としての意味をも有していたのではないかと思った。ここで人文学・社会科学は「人類」を、社会の中で位置づけることを可能にするのではないかというある種の可能性に気づいた。ここで「点」は、X座標を有するようになる。
最後に、西崎先生の報告の中、「視座や文脈を考えながら、歴史の一コマを生きているという認識を可能にするのが人文・社会科学だとすれば…」というところがあったが、この部分で、この人文学・社会科学のもう一つの役割によって、人類は「時代(歴史)」という、Y座標を与えられるのではないかと思った。
つまり、人文学・社会科学は人類をまずあらゆるものからいったん離して、その後社会の中で、時代の中で今人類がどこに存在しているのかをあらためて教えてくれる役割を果しているのではないかと思った。
現位置を知らないと、前進もできない。電車だけでは「駅」は成立しないのである。交通法だけでは「駅」は成り立たない。今日のシンポジウムは「『電車』と『交通法』のある場所」を「駅」にする、人文学と社会科学の役割について、先生たちの「知」に携わる人生そのものが語ってくれる良い機会であったと思われる。
博士課程 Lee Seon Hyung(イ ソンヒョン)
今回のシンポジウムのタイトルが「今、地域(文化)研究に何ができるか」ではなく、「今、人文・社会科学に何ができるか」だったことに若干の戸惑いを覚えつつ、基本的に(日本)社会から“有用性”を認められにくい学問であるというネガティブな意識、あるいは危機感から発されていることの表れだったのかなと理解した上で、今日のお話から感じたことを書き留めておきたい。
まず、それぞれの先生方やコメンテーターの方の研究分野の具体的なお話がとても面白く、正直思わぬ収穫を得た気がする。本来的に、よく知らない/知られていないことを知らせるのは面白いことで、人文・社会科学の中でも地域研究は、実は社会による“有益性”スクリーニングの第一歩――ひとまず研究者個人の自己満足でしかないわけではなく、何らかの“新しい”ことを提示はしているという基準線――は超えているという意味で、まだ大学に残る猶予はあるのではないか…と思った(思いたくなった)。
ただ一方で、“有益性”というものについて考える余地もとても大きく残されているのではないか、ということも考えた。私自身は、社会科学の方により強く依拠しているのだが、同じ専攻の人文学志向の強い研究には憧れを感じてきた。それは、圧倒的な教養のようなもの・自分には手の届かないような感性豊かな世界への羨望でもあるかもしれないが、それだけではなく、個別の地域を対象とするこの専攻の中で、より普遍の知の追究に近い位置にあるのは、実は人文学の方なのではないか、ということを感覚的に思っていたからなのかもしれない。今日は人文学と社会科学をあえて切り分けるようなお話が多かったからか、初めて自分の中での人文学への“憧れ”の意味を言語化する機会になった。私自身の悩みに少しひきつけて考えると、社会科学のディシプリンの立場にありながら、マレーシアという、日本との関係もやや希薄かつ世界の中でのプレゼンスも決して大きな方ではない地域を対象としており、どうしても、マレーシアの個別事情を細々見ていれば社会的に“有益”な研究として認めてもらえるわけではないという感覚があり、そのために “普遍”の方に至る研究を志向しているのかもしれない(人文学の方には「一緒にするな」と怒られてしまいそうだが…。)
“有益性”について、石井先生が「フェルマーの定理がわかっても、ニュートリノやニホニウムの研究が進んでも、私たちのお腹はふくれないのに」とおっしゃったのが会場の笑いを誘っていたが、私は結構真に受けてその通りだと思った。何の学問、どのような発見なら “有益”なのかというのには、客観的な基準などない。(日本)社会が学術に関する“有益性”概念/観念をどのように構築している・してきたのかを、それこそ人文・社会科学の知を活かして明らかにし、そこにある矛盾などを指摘した上で、こちら側から積極的に学術の意義・“有益性”の構築に入り込んでいくような姿勢も、もしかしたら(もし今後も人文・社会科学不要論が社会の中で強まっていくのなら)必要なのかもしれないと少し思った。
博士課程 R. T.
①石井先生のご報告について:「人間の不条理性は科学知では解明できず、人文知こそが必要となる」、というお話を伺い、先日読んだあるエッセイを思い出しました。それは、シェイクスピア研究などで知られるJonathan Bateが何年か前に編集した“The Public Value of the Humanities”という論集のIntroductionでしたが、Bateもここで、Humanitiesの存在意義を解き明かそうとしています。彼によれば、人文知のモデルは、『創世記』の族長の一人ヨセフの「夢の解き明かし」にあるのだ、というものだったと記憶しています。ヨセフは多くの夢についてその解き明かしをします。例えばファラオの見た「七つのしなびた穂が七つの豊かな穂をのみこんだ」という夢について、「七年の大豊作ののちの七年の大飢饉」であると解釈する、とった具合です。そのことによってヨセフはエジプトの危機を救うことになりますが、Bateによれば、ヨセフは、 科学者や経済学者のように客観的な指標に基づいてではなく、文芸批評家のように、夢=物語の解釈によって未来を予測し、危機を救ったのであり、これが人文知の一つのモデルだと述べていました。このヨセフの例は、人文知・物語の解釈によってしか解けない不条理な(確かに夢は不条理です)問いというものが確かにある、ということを示す点で、石井先生のお話とも響きあうもののように思われます。
②発表者のみなさんのお話を伺うと、「社会的要請」なるものと学問研究の間に相克があるという認識が広く共有されていることがわかります。石井先生もおっしゃっていたように、わたしたちは、この社会なるものにしっかりと「 」をつけられなければいけないのだとこの頃強く思うものです。先日、就職をした大学時代の友人に「学者に体制批判的、左翼的な人が多いのは、本ばっかり読んで社会を知らないからだ」と言われました。私は、これ自体極めて偏向した――学問のもつcriticalな性質をある種の「越権」と考える支配者の心理にわざわざ一体化しているという意味で――発言を聞いて、高等教育というものは「社会」やら「常識」やらといった言辞を語ることで、実のところ誰の利益を代弁させられているのか、それを見抜く力をやはり培う場であるべきなんだ(なのにやはりこの国では少なくともできていない)とひしひしと感じさせられました。その意味で、リベラルアーツの「種々の拘束や束縛」から人間を解放する(「 」をつける)という言い古された定義がやはり全力で擁護される必要があるのではないでしょうか。
修士課程 飯野雅敏
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