報告

第23回 公開シンポジウム 『コスモス・幸福・愛』

日時: 2015年6月27日(土) 14:00-17:30
場所: 東京大学駒場Ⅰキャンパス18号館ホール

報告:
 1.日本文化史における「天地」「幸福」「愛」
   黒住真(地域文化研究専攻)
 2.イタリア中世恋愛文学の知性と幸福 ─天使と恋人をめぐって
   村松真理子(地域文化研究専攻)
 3.誰の幸福?―19世紀ドイツ市民社会における幸福と愛 
   足立信彦(地域文化研究専攻)

 異なる時代のなかでは、「幸福」とはどのように捉えられてきたのでしょうか。それは現在どんな意味を持つのでしょうか。

 ある地域に生きる人びとに共有される「記憶」や「経験」こそが、その地域にまとまりを与えるのであれば、「幸福」もまた、「記憶」と切り離せるものではなく、そこに生きる人びとの世界観=コスモス(秩序ある宇宙)を形成し、地域のまとまりを支えるものでしょう。

 本専攻のシンポジウムでは、ヨーロッパとアジア、文学と歴史、前近代と近現代をそれぞれまたぐ、地域文化研究専攻がめざす横断的・越境的なテーマを取り上げてきましたが、今回は中近世イタリア地域・近代ドイツ圏・近世近代東アジアにおける「幸福」の事例を紹介し、それぞれの時代と地域の「幸福」に踏み込んでその意味を考察いたしました。



≪シンポジウムに出席した在籍学生のリアクション・ペーパーより≫

 今回のシンポジウムでは、地域文化研究専攻に入学しながらも、ほとんど文化・文学の研究に触れてこなかった私にとって改めて、研究地域の文化を学ぶことが、その理解につながることを実感する契機となった。というのも、先生方は3人とも、1つの共通テーマから各国の異なる特性を示して下さったためである。
 黒住先生は、今回の報告を引き受けた理由を、日本思想史/文化史をその枠内に限定せずに東アジアや世界と結びつけて考えるアプローチの必要性を感じたためと述べ、本専攻としての研究姿勢のあり方を考えさせられた。報告では、現代の行為を説明するのに伝説を援用し、思想を遡って学ぶ重要性を感じた。
 村松先生のご報告は、「天使」のイメージが表しているものを中世から現代に至るものまで取り上げるものであった。現在、あるモチーフが何を示しているかを明らかにするためには、その用法の歴史的変遷を理解する必要があると感じた。
 足立先生のご報告では、19世紀の思想家をドイツを中心に取り上げ、当時の愛・幸福の考え方を示すものであった。他分野で取り上げられることの多いカントやヘーゲルの女性観を知ることは、新鮮に感じた。また、同時期の他国思想家の研究も合わせて示していただき、横のつながりに関心をもつことで、研究の幅が広まることを感じた。
 本専攻は、先生方や学生の関心分野が多様であるため、ともすれば全員が違う方向を向きかねないと感じてきた。しかしながら、今回のシンポジウムのように、同じテーマを軸として議論することで、この多様性を活用できると実感した。

修士課程


 ヨーロッパの中世から近代において、「愛」がどう捉えられ、表現されてきたのかを学ぶことができ、興味深く思いました。ただし、その「愛」や「幸福」・「神聖なるもの」を語る担い手は主に男性であったこと、そしてあくまでも今回のシンポジウムの内容では、女性は他者としてその存在が語られていたことに違和感を覚えます。可能であれば、当時の女性が残した手記などの史料から、彼らの考える「愛」などを知りたいと考えました。
 また、西欧や日本だけでなく、他のヨーロッパ・アジア・アメリカ・アフリカ地域、または非キリスト教圏などで、「愛」や「幸福」はどう捉えられてきたのでしょうか。それらの地域からの眼差しをも包括して、改めて真のコスモスの在り方を考察する機会を今後いただけましたら幸いです。
 今日、特に欧米ではジェンダーの多様性が広まり、つい先日もアメリカ合衆国では同性婚が全州で合法化されました。このような、もはや男女の性別を前提とする「愛」や「幸福」の在り方が通用しなくなっている現代社会で、「コスモス」はどう捉えられうるのか興味深く思います。

修士課程 竹田安裕子


 黒住先生のご報告のなかでは、1. 昨今の人文学を巡る世論に対する問題提起と2. 近世日本思想史、就中荻生徂徠における「信仰」について、関心を持ちました。
 1. 地域文化研究というディシプリンにつき、その対象としての地域の「解体」が叫ばれるなか、対象を一地域からヨリ広い領域へと拡げ、同時に幅広い視野を持つことは、今後実践していかなければならないと感じました。
 2. 近世日本思想の文脈において、西洋の「コスモス」に対応する「天地」概念や、「気」と「理」の二項対立が指摘されました。荻生徂徠の展開した議論への展開した議論への言及は、ご報告のなかではさほどなされませんでしたが、「信仰」や「祭祀」という概念を徂徠が用いていた、という事実を、黒住先生が指摘されました。ごく基礎的な疑問ではありますが、日本思想史の文脈であらわれる「信仰」が、西洋における信仰、ことキリスト教思想における「信仰」とどの程度一致 / 乖離しているのか、と感じました。また、西洋では17世紀以降「世俗化」が進展し、キリストの神秘体(corpus christi)としての「教会(ecclesia)」が解体される動きがある一方、日本においては、寺社仏閣の自律性の弱さや、「危機神学(Theologie der Krise)」に近い考えから主張された「教会(≒正統)」への反発が認められますが、こうした現象について、何らかの比較の可能性が存在しうるのか、20世紀初頭の日本におけるキリスト教思想を考慮に入れつつ、検討してみたいと思います。

 村松先生のご報告では、そのひとつの軸でもあった「天使概念の、文学・絵画上での貴婦人への変容」に関心を持ちました。天使については、キリスト教神学の文脈において、多くの論者によって扱われてきました。例えば、Thomas AquinasのSumma Theologicaにおいて、或いは近年発表されたGiorgio Agambenの、天使のヒエラルキーと近代の官僚制との類似性を扱った論考において、天使という論点は重要なものであるといえます。村松先生もご指摘されていましたが、angelus – ヘブライ語におけるמַלְאָך 、まさに「御使い」と訳される単語 – はそもそも神からの使いであり、人間のような肉体を持つこともなく、今日私たちが想像するような翼を持った姿でもありません。しかし、その「天使」がやがて文学や絵画においてひとつのモティーフとして扱われるようになる。そうした天使概念の変遷の歴史についてのご報告は、聖書における「啓示(Offenbarung)」という問題を考察する上でも、参考になるものであると思います。

 足立先生のご報告は、コスモスと人間の運命とのつながりから、幸福 / 愛、さらには男性が女性に向けるまなざしと、それが結晶化した「像」と、幅広い論点が扱われた、非常にダイナミックなものであったと思います。報告の冒頭で足立先生が指摘された彗星を巡るエピソード、或いは彗星に基づくある種の比喩を受け、初期啓蒙時代の「彗星」に関する議論を想起しました。つまり、Pierre BayleがLettre sur les comètesにおいて、或いはPensée diverses sur la comèteにおいて、彗星を巡る迷信を打破しつつ、信仰と道徳、或いは信仰と理性の分離 – この区分については、黒住先生のご報告とも関係すると思われます – を説いたことを、足立先生のご報告と結びつけることができるのではないか、と考えました。

修士課程 稲垣健太郎

昨年までの公開シンポジウム情報はこちらから

2015sympposter.tiffポスター
thumb_DSC02626_1024.jpg開会挨拶
thumb_DSC02639_1024.jpg趣旨説明
thumb_DSC02629_1024.jpg会場の様子
thumb_DSC02643_1024.jpg黒住報告
thumb_DSC02655_1024.jpg村松報告
thumb_DSC02661_1024.jpg足立報告
thumb_DSC02689_1024.jpgコメント
thumb_DSC02684_1024.jpg討論の様子
thumb_DSC02751_1024.jpg質疑応答

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