報告
第21回 公開シンポジウム 『地域とニューカマー 対面・相剋・共生』
日時: 2013年6月29日(土) 14:00-17:30
場所: 東京大学駒場Ⅰキャンパス18号館ホール
報告:
1.村のニューカマー ─『大学生村官』からみた中国社会
田原史起(地域文化研究専攻)
2.歴史のなかの<ニューカマー>たち ―ドイツ近現代史の観点から
石田勇治(地域文化研究専攻)
3.「ニューカマー」としてのアメリカ合衆国 ―国際関係史の視点から
西崎文子(地域文化研究専攻)
既存のコミュニティに未知の外来者が現れたとき,在来の人びとは新来の存在に対してどのように向きあうだろうか。新来者は,すでにあるまとまりとどのように接するだろうか。受け入れるのか,拒むのか。入っていこうとするのか,自分たちだけのまとまりをつくるのか。
接触と拒絶,包摂と差別。摩擦と融和,対立と共存。移住民であれ新興政治勢力であれ、「ニューカマー」の出現は,新来者自身にさまざまな選択を迫るだけでなく,彼らと対面することとなる地域――身の回りの小さなコミュニティから国際社会まで――の側にも葛藤を引き起こし,ときに内省や変容,自己変革をも要請します。そのときの地域の対応のあり方から,その地域の個性や固有の課題が浮かびあがってくるともいえるでしょう。
このシンポジウムでは,「ニューカマー」の出現をめぐるさまざまな事例を通して,異なる存在同士の接触と相互影響の諸相を見つめ,そしてそこから浮かびあがる地域それぞれの姿をとらえようと試みました。
≪シンポジウムに出席した在籍学生のリアクション・ペーパーより≫
今シンポジウムの3つの研究報告のうち、とりわけ「大学生村官」「アメリカ新外交の理念」についての報告と、そこで示されたニューカマーのある種の「積極性」が興味深かった。従来の異分子概念(たとえば異邦人stranger/outsider)はマイノリティの含意が強いため、外部からやってきながらもその社会の管理・運営・改革を担うような他者を指示出来ない。一方「ニューカマー」は、たんなる異分子としてある共同体の内に飲まれるのではなく、異質な能力をもつ者として社会内で積極的に機能する。村官の報告から明らかになったように、ニューカマーは異質な文化・能力を保持するだけでなく積極的に発揮する存在としての他者を指示する新概念として考えられるように思う。
ただ、ニューカマーという語を用いる場合、異人が「やってくるcome」ことができるような所与の社会集団や共同体が現在の世界でどこまで自明のものなのか、あらためて疑問を呈する必要があるように思う。共同体は各々の時代にやってきて受け入れられた成員が構成しているという点で、どんな成員ももとは「ニューカマー」だったはずである。仮にニューカマーという概念がある時代、ある地域で積極的に提唱されるのであれば、むしろその政治性・イデオロギー性に注意しなければならないはずと思う。これはアメリカ新外交の理念として報告された際にもディスカッションのなかでも提起されていた問題だが、私としては加えて、それまで「侵略」や「文化帝国主義」の文脈で論じられていた問題を「ニューカマー」という言葉によって覆ってしまう危険があるのではないか、と感じた。その意味で、「ニューカマー」はあくまで議論の端緒とし、しかし明確な概念として用いすぎないほうがよいのでは、という印象を持った。
修士課程 I. W.
ニューカマー概念を取り扱う際に実体的な側面と構築的な側面はきちんと峻別していく必要性を感じました。田原先生の事例のように個人の一生程度のタイムスパンで時間的前後関係がつけられたり学科の入学のように「年度」のような順序づけによって先と後を区別できるような場合にはニューカマー概念を「客観的」立場から実体論的に扱えます。一方でアメリカが外交に参入する場合やドイツにおけるドイツ民族以外のマイノリティーのように、ある程度の社会的恣意性をもって、また個人の一生のタイムスパンをこえたり明確な順序づけを欠くものとして構築されて「想像」される場合は、言説の問題としてニューカマー概念を扱う必要があるのではないでしょうか。しかし、この際にも実体論的なニューカマー概念が根底にあることは重視すべきように思います。実体論的なニューカマー概念がますあって、それを見えない場所・生きていない時代に広げる社会的想像力があると考えられるのです。この際、異人性や新入者の潜在的力、受容の儀礼性などの性質はどちらも共有しているのではないでしょうか。
修士課程 相田 豊
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