報告

第31回 公開シンポジウム 
 インターセクショナリティ―新たな地域文化研究の可能性―

日時: 2023年6月24日(土) 14:00-17:30
会場: オンライン(Zoomウェビナー)

専攻長挨拶:外村 大
趣旨説明:土屋和代
 
 多様な地域、時代、分野を専門とするスタッフから成る東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻では、地域と分野を横断・越境するテーマを取り上げ、シンポジウムを開催してきました。2023年度は、多様性に満ちた現代社会を理解するうえで最重要概念のひとつと呼ばれる「インターセクショナリティ(交差性)」を切口とし、さまざまな地域・時代の現象をかたちづくる力学をとらえることを目指しました。
 インターセクショナリティ(交差性)とは人種、階級、ジェンダー、セクシュアリティ、国籍、世代、アビリティなどのカテゴリーがそれぞれ別個にではなく、相互に関係し、人びとの経験を形づくっていることを示す概念=分析枠組みです。その言葉には、奴隷制下から現代にいたるまで、黒人、女性、移民、貧困層、性的マイノリティの権利を求めて、声を上げ続けたブラック・フェミニストたちの声が重ねられてきました。今日、インターセクショナリティは様々な学問分野、社会運動、政策に影響を与えるものとなり、アカデミズムを超えて、社会運動の担い手によって、さらには政策立案者によっても採用されています。日本を含む世界各地における「多様な知的・政治的プロジェクト」となったインターセクショナリティにはどのような可能性と限界が秘められているのでしょうか。
 本シンポジウムではインターセクショナリティの視点から、現代世界を織りなす力学の交差性に迫るものです。インターセクショナリティに注目することで、それぞれの地域の歴史、社会、文化のどのような諸相が浮き彫りとなるのか。新たな地域文化研究の可能性が拓けるのか。また「構築の途上」にあるインターセクショナリティという概念のいかなる特徴と限界が浮かび上がるのか。異なる地域の具体的な事例をもとに検討しました。
報告
報告1:和田 毅(地域文化研究専攻)
「社会運動論からみたインターセクショナリティの可能性――抗議行動のイベント・データを用いた交差構造の同定」
報告2:速水 淑子(地域文化研究専攻)
「クライスト『聖ドミンゴ島の婚約』(1811)における『混血』少女の表象――権力性を帯びた複数の物語の交差」
報告3:岡田 泰平(地域文化研究専攻)
「司法言説、社会運動、歴史叙述――フィリピン人『慰安婦』をめぐる重層的理解とその限界」

 報告1(和田毅)は社会学の視点から、インターセクショナリティ論を従来の社会運動理論と接続するものでした。インターセクショナリティというアメリカの黒人女性の経験から生まれた概念が、それ以外の分析にも有効な、より一般的な利用価値(拡張性)を含有する概念なのか、という本シンポジウムの核心的な問いが提示され、空間的(地理的)拡張性、時間的(歴史的)拡張性、差別構造的拡張性、研究アプローチの拡張性の四側面からの分析がなされました。インターセクショナリティをインターアクション(交互作用)」として位置づけ、「交互作用効果モデル」として理解することで、インターセクショナリティという概念のいかなる特徴と利点が浮かび上がるのかが論じられました。「交互作用効果モデル」として理解する7つの利点として、差別構造は「和」ではなく「積」である点が明らかとなること、「隠蔽されている差別」を特定できること、他の差別構造の分析にも応用可能なこと、クレンショーの地下室の比喩を具象化できること、差別構造はどこまで(いくつまで)複合するのかという問題にひとつの答えを出せること、重層的な差別構造の影響を分解し検討できること、他の研究アプローチも可能になることが示されました。インターセクショナリティという概念の拡張性、可能性を考えるうえで極めて示唆に富むご報告でした。

 報告2(速水淑子)では、ドイツの政治思想、文学、ジェンダー研究の視点から、インターセクショナリティという概念が文学作品の分析にどのように適用可能かが検討されました。インターセクショナリティは「アイデンティティの政治」において前提とされてきたカテゴリー内部の同一性を問い直し、「差異の政治」において等閑視されがちであった階層的な権力配置をあらためて問題化するものであるとの示唆に富む指摘がなされました。19世紀初頭にプロイセンで出版されたハイチ革命(1791-1804)を舞台とした恋愛悲劇短編小説『聖ドミンゴ島の婚約』を、ドイツ語圏におけるハイチ革命をめぐる言説のひとつと位置づけ、作品内世界での交差的な権力状況を整理するとともに、作品がどのようにしてテクストの外に現実の抑圧を作り出し、自ら権力装置として機能するか、あるいはどのようにして抑圧を告発し、現実における解放の契機となるかが鮮明に描き出されました。その際、特に作品の内外にみられる<権力性を帯びた物語>に着目し、それが作品という場で交差する様子が具体的に提示されました。複雑なテクストのなかで織りなされる複数の物語、スイス人の仏軍将校である白人男性グスタフと「メスティーツェ」の少女トーニの悲劇に隠された女性の「自己犠牲」の物語や人種主義、植民地主義の暴力をあぶり出すご報告でした。

 報告3(岡田泰平)では、日本軍「慰安婦」にさせられたフィリピンの人々をめぐる運動を通して、インターセクショナリティという概念がアメリカ社会の文脈以外でどのように活用しえるのか、また過去の著しい暴力にいかに適用できるのかが検討されました。新聞やミニコミ誌、判決文に添付された「被害事実等目録」、マリア・ロサ・ヘンソンの自伝三カ国版(日本語版、フィリピン刊行の英語版、アメリカ刊行の英語版)という多岐にわたる史料を丹念に渉猟し、フィリピン人「慰安婦」の凄惨な経験を浮き彫りにするとともに、史料そのものをテクストとして鋭く分析する極めて重厚なご報告でした。フィリピン人「慰安婦」をめぐる運動においては、インターセクショナルな視点から権力の交差性を露わにする試みは前提となっていたこと、一方司法という重要な局面においては権力の交差性が後景に退き、当事者を取り巻く複数の権力を表すことよりも暴力と繰り返されるレイプという「慰安婦」体験に焦点があてられ、闘うべき相手は日本軍国主義であると位置付けられた点が明示されました。ご報告の最後に、「交差する権力のどれを、どの程度、それぞれの社会における社会運動の特定の局面で取り上げるのか」が問われるべきなのではないか、との問題提起がなされました。

 報告に続けて、シンポジウムの後半では、2人のコメンテーターから、ご自身の研究内容をふまえた質問とコメントが寄せられました。

コメント1:保井 啓志(地域文化研究専攻博士課程修了・筑波大学ヒューマンエンパワーメント推進局)
コメント2:アルヴィ宮本 なほ子(地域文化研究専攻)

 コメント1(保井啓志)では、イスラエルとパレスチナの社会運動、とくに性的少数者の権利運動、および動物の権利運動の事例から、単一争点の運動と複数争点の運動の利点と欠点についての説明がなされました。そのうえで、インターセクショナリティにおいて、たとえば動物のように「声にならない」声をどう汲み取ることができるのか、「不在」をいかに表しうるのかという問題提起がなされました。さらに『聖ドミンゴ島の婚約』における黒人少女の表象をめぐる解釈や、フィリピンの「慰安婦」運動のアプローチやその選択の背景に関して、シンポジウムの趣旨に関わる重要な指摘や問いが提示されました。

 コメント2(アルヴィ宮本なほ子)では、クレンショーが提示した交差点という「比喩」と地下室をどのように統計モデルで可視化できるのか、『聖ドミンゴ島の婚約』という、20世紀後半のアメリカ黒人女性の経験とは時代も場所も分野も異なるテクストにおいてインターセクショナリティはどのような意味を持ちうるのか、フィリピン人元「慰安婦」の記憶をいかに可視化できるのかとの質問がなされました。そのうえでブラック・ライヴズ・マター運動における人間の解放を求めた叫びと、ロマン主義の詩人たちの変革を求める声が共振し、ロマン主義文学研究が問い直されたことや、ウィリアム・ワーズワスのソネットに描かれる地下牢とクレンショーの地下室の比喩のつながりなど、ロマン主義文学研究の視点からの洞察に満ちたコメントがなされました。

 さらにフロアからはクィアなど性的マイノリティの人々の受ける複合差別をどのように立体図のなかに位置付けることができるのか、『聖ドミンゴ島の婚約』のような優生学的な要素を含む小説は19世紀初頭にどの程度普及していたのか、ヘンソンの自伝のうちフィリピン版とアメリカ版にはどのような違いがあるのか、インターセクショナリティにおいて宗教はいかに位置づけられるのか、インターセクショナリティと脱構築はどこが異なるのかなど、多方面から質問が寄せられ、報告者と議論が交わされました。同一人物の中の「抑圧者」的アイデンティティはどう考慮されるのか、というシンポジウム全体に関わる質問も投げかけられました。

 本シンポジウムは、複雑な文化の位相をとらえるうえでインターセクショナリティという概念がもつ可能性を示すとともに、インターセクショナリティと社会運動について考えるときに突き当たる壁――さまざまなカテゴリーを扱ったときに社会運動としてのインパクトはむしろ弱まるのではないか、インターセクショナルな政治的プロジェクトはどのように実践可能なのか――について考える貴重な機会となったのではないでしょうか。研究において、あるいは日常の実践の場で、「権力性を帯びた物語」にいかに対峙するのか、差異を生み出す力学を注視しながら、地域や時代、テーマを超えていかに対話を開いていくのかという大きな課題が、このシンポジウムを通じて改めて浮かび上がってきたように思います。
 オンラインで開催された本シンポジウムには130名を超す方が出席され、シンポジウム終了後にも多数のコメントを頂きました。「インターセクショナリティが何をするのか」(何ができるのか)を様々な地域・時代・分野から検討した本シンポジウムが、参加者の皆さんにとって、インターセクショナリティという概念の可能性を考えるうえでも、日常生活における様々な疑問や研究上の課題に向き合ううえでも、実り多きものであったことを願っています。

司会・文責:土屋 和代(地域文化研究専攻)

在学生によるリアクション・ペーパーから

 まず、全体として、インターセクショナリティという概念は、文化や社会を総合的に考察する地域研究や表象文化、国際社会学など、総合文化研究科における研究に幅広く応用可能だと思った。
 和田先生の発表における、インターセクショナリティの図表化は極めて興味深かった。人文社会学系の研究では、複雑な概念を図表化することが難しい場合が多いがそれを乗り越えるものだった。一方で、図表化することで失われてしまう情報は何か、ということを十分に考察する必要性を感じた。速水先生の文学におけるインターセクショナリティの研究は、19世紀初頭ということ、文学作品に注目したこと、この2点において、インターセクショナリティの時間的、研究アプローチの拡大を如実に行っていた。岡田先生の慰安婦に関する研究は、社会運動の域においてもこの概念が活きることが分かった。
 また、自身の研究においてもインターセクショナリティの概念は利用できると考えた。私は、19世紀から20世紀前半のイギリス客船に注目し、大西洋を移動した移民や旅行客など、大西洋世界における人の移動を研究している。当時の大西洋横断客船は、3等客室の移民から、2等客室の旅行者、ビジネスマン、1等客室の貴族、政治家まで、様々な階級、国籍、人種が混ざり合う場でもあった。したがって、客船内の社会を考察する場合においては、インターセクショナリティ的視点が必要となるのである。
 今回のシンポジュウムで、現在の社会学研究で重要な概念となっているインターセクショナリティについて知れたことは、今後の研究に有益なものとなるだろう。
(イギリス/小林 朗大)

 社会学の研究におけるインターセクショナリティという概念は、高い包括性と広い適用範囲を持っているというのが私の感想です。
 まずはインターセクショナリティという概念の包括性についてです。インターセクショナリティの概念は、個人の多次元的なアイデンティティや経験の複雑さを捉えることにより、より包括的な理解を提供します。ジェンダーだけでなく、人種、クラス、性的指向、障害など、さまざまな社会的要素が相互に交差することで、個人が直面する差別や抑圧の形態や経験が変化することが理解されます。インターセクショナリティのアプローチによって、単一のアイデンティティや抑圧の形態に焦点を当てる従来のアプローチでは見落とされる個人やグループの経験やニーズを考慮することができます。
 次に、この概念には広い適用範囲を持っています。インターセクショナリティの概念は、ジェンダー研究だけでなく、さまざまな社会科学の分野に適用されます。これは、ジェンダーに関連する抑圧や差別が他の社会的要素と相互に結びついていることを理解するために、さまざまな視点とアプローチを必要とするからです。例えば、女性の経験を研究する際には、人種やクラスの要素も考慮することで、特定のグループが直面する重層的な差別を明らかにすることができます。また、教育、保健、法律、政策などの領域でもインターセクショナリティのアプローチが重要です。これにより、より公正な社会を実現するための措置や政策を考案することが可能になります。
 しかし、インターセクショナリティの概念には曖昧さも存在します。それは、インターセクショナリティが多様な要素や経験を包括的に捉えようとするため、複雑さや多様性が反映されるものであるためです。個人の経験は一意的であり、さまざまな要素を考慮することは困難です。また、インターセクショナリティの概念は時に政治的な意図や個別の経験に基づく解釈によっても曖昧さが生じることがあります。個々の経験やアイデンティティは多様であり、人々がそれぞれ異なる方法で自己を定義し、解釈することができます。そのため、インターセクショナリティの理解や適用には、文脈や個別の経験に基づく柔軟性が求められます。
 インターセクショナリティは進化し続ける概念であり、常に議論や批判の対象となる可能性もあります。重要なのは、個人の経験を包括的に理解し、社会的な公正や包括性を促進するために、インターセクショナリティの考え方を進化させていくことです。
(日本/楊 傑)

 先生方によるいずれの発表も、とても興味深い議論で、大変刺激を受けました。「抑圧・差別の交差性」とも翻訳されるインターセクショナリティという概念を、問題とする事象の構造について考える場合、「権力の隠蔽された交差性」という把握にも読み替えられるのか?とも思いました。例えば、アイヒマン裁判を傍聴したアーレントがユダヤ評議会の加担性を指摘した際にユダヤ人コミュニティから激しく批判されたと聞きます。この場合のアーレントの指摘を例として参照できるとすれば、時代ごとに広く普及している歴史記述の在り方について、上記のような観点から再検討する場合、権力/抑圧の二項的な構図の間に双方の属性が混交する隠れた権力性が可視化され得るという論点が見いだされるのではないかと思いました。
 インターセクショナリティという概念に問題発見的な可能性があるとすれば、目につき易い言説のもとでは却って周縁化、不可視化されて、さらなる構造的な劣性を強いられてしまう当事者のヴァルナラヴィリティを可視化し、彼ら自身の主体的な営為としての語りをして語らしめることに寄与することにあるのかもしれません。今後とも引き続き考えてみたいと思います。
 そもそも地域研究という学問が、近代的な諸学のディシプリンにおける設定や言説において働いてきた制度的な機制に対しての反省を促すような問いを、様々な地域の現場やそれぞれの地域の人々の主体的な営みに即した観察や考察を介することで発見し、学際的さらには超域的な思考や議論の交差性をこそ糧として発展してきたと言い得るならば、従来の「現実」の問題理解の限界と共犯的な既存の複数の言説編成の断層そのものを批判的に問うことで以てこれまで不可視化され周縁化されてきた当事者の声に耳をかたむけようとする「インターセクショナリティ」のアプローチには地域研究と親和的な問題提起性が含まれているのではないでしょうか。社会運動の現場と密接な連携を通じて形成されてきたこの概念を地域研究が導入して論点として引き受けようとすることは必要かつ妥当な試みと解されます。ゆえに、インターセクショナリティは学際的・超域的な挑戦を伝統としてきた本学の地域文化研究専攻のシンポジウムにおいて取り上げるに相応しいテーマであると思いました。
(東南アジア/片岡 真)

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